本と論文をいくつかバッグに入れ、好きなときに取り出し目を通していた。
院試が終わったから、空いた時間はもう気兼ねなく研究や読書、あるいは趣味に充てられる。
試験勉強ではなく、自分のための勉強ができる。
試験がない生活が僕をこれほど自由な気分にさせてくれるものだったとは、久しく忘れていた。
松山から成田に飛ぶ機上で、ダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』(早川書房・小尾芙佐訳)を読み終えた。
主人公のチャーリイ・ゴートンは知的障害者だったが、手術により劇的な知能の発達を遂げる。
しかし、急激な知能の成長は周囲の人々を怖がらせ、かつては愚かしくも朗らかな青年だったゴートン自身にも慢心・人間不信を感じさせるようになる。
ダニエル・キイスは日本語版の序文で「この小説の読者たち、さまざまな年齢層の、さまざまな背景と文化と言語をもつおびただしいひとびとが、自分自身をチャーリイになぞらえるだろうとは、ゆめにも考えていなかった」と記していた。
実際僕もこの物語を読み進めるにつれ、「自分はチャーリイ・ゴートンなのではないか」と強く心を揺さぶられたうちの一人だ。
僕は幼いころどちらかといえば間の抜けた性格で、あまり勉強ができなかった。
小学四年生の終わる春に友達から誘われ中学受験塾に入り、最初はひどい成績をとっていたが、教材が自分に合っていたからか、次第に順位を上げていった。
塾に通い始めてからしばらくしたある日、かつて自分が書いた作文を見直した。
文法はむちゃくちゃだし、句読点の使い方も不適切で、文章は長たらしく主語すらはっきりしない。
塾でさまざまな文章を片っ端から読んで、適宜辞書を使いながら勉強をしているうちに、ようやく僕は(小学生としては)及第点の作文を書けるようになったのだった。
いままで目の前を覆っていたもやが取り払われたような気分がしたし、他人にわかってもらえる形で自分の考えを表現できるようになったことに清々しい気持ちを覚えた。
一方で、僕の様子を快く思わないクラスメイトもいたようだった。
あるクラスメイトは「おまえになんか塾は無理だよ」と僕の目の前で言ったし、別のクラスメイトからは「おまえはみんなに嫌われているんだよ」と根拠のない文句を伝えられ、(僕もその頃は他人の台詞を額面通り受け取るほど単純な性格だったので)気が動転したことがある。少しあとになってから彼に問い質すと「おまえが妬ましかった」という言葉をもらった。
いままで仲良くしてもらえていた人たちから疎ましがられる理由が、僕にはさっぱり理解できなかった。
いま『アルジャーノンに花束を』を読んで、その理由の手掛かりが与えられた気がした。
ここではこれ以上詳しく記さないが、主人公をからかうドナー・ベイカリーの店員たちに彼が抱いた心境の叙述は、僕にそれをうまく説明してくれた。
ダニエル・キイスは大学生だったころ、『アルジャーノンに花束を』の構想をメモに記したのだという。
「ぼくの教養は、ぼくとぼくの愛するひとたち――ぼくの両親――のあいだに楔を打ちこむ」この言葉にはハッと気づかされるものがあった。
僕は帰省をするたびに、愛媛で暮らす両親たちとだんだん考えが異なってきている事実を感じる。
僕の変容、それは僕にとっては肯定的な意味を持つものであっても、彼らにとっては不愉快なものに思われるようだ。
大学でさまざまな人に会って、さまざまな考え方を見聞きして、それをもとに僕が認識を日々書き換えつつあることは、彼らからすると僕を僕なからしめる行為であるらしい。
素直だったおまえはどこに行ったの。勉強ばかりして性格が変わってしまったね。
僕たち家族はかつて毎日食卓で顔を合わせ他愛ない話をしていたのに、三年半の歳月が、僕が大学で得たものが、それをもはや不可能にしつつあるのかもしれない。
両親を前に僕が説明をすればするほど、僕の思いとは裏腹に、それは両親たちには許容しがたい、理解しがたいものとなっている。
帰省ついでに『アルジャーノンに花束を』を読んでいると、そうした観念が迫ってくるようだった。
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