「『天職』っていう言葉があるけど、英語でなんて言うかわかる?」
「 Vocation ですか」
「それも確かにあるけど、ここでは Calling としよう」
「ああ、なるほど」
「俺は学部4年で研究室に配属されてずっと研究をやってきたけど、修士2年のときにまだ研究を続けたいと思ったんだよ。まだここで終わりたくない、何かが自分を呼んでいる、って感じかな。天職、 Calling を感じた。それでドクターに進んで、何とか今までやってこれた。競争の激しい世界だし、自分の領域を確立しないと残れないのがこの世界の掟だ。一寸先は闇だよ。俺たち研究者は自分の身を賭けて研究をやっている。師匠と同じことをしていてはオリジナリティがないからね」
「まだ研究室に入って間もない僕には想像のつかない世界ですね。これから一年間は教授に与えられたテーマを進めていくことになるのですが、いったいどういうスタンスでやっていけばいいのでしょう」
「まずは与えられたテーマに満額回答、いや120パーセントの答えを出してみるといい。オリジナリティを追及するのはそれからだよ。俺は研究を進めていくうちに二種類の人間が出てくることを経験している。自分のテーマに愛しさを感じるようになる奴と、そうでない奴」
「毎日それについて考えていれば親近感を覚えるようになると思います。きっと前者が研究者向きなのですね」
「そうとも限らない。それが自分のストーリーではなく、教授のものに見える瞬間が訪れるんだよ」
「ああ。確かに教授が問題を提示して、学生はそこから出発しますね。答えまでたどり着くのは自分の力に大きく依存するかもしれませんが」
「研究室、という環境も大きいよ。君たちは結構恵まれた環境にいる。高額な測定装置がいくつもあるし、器具だって贅沢に使える。野球で例えるなら、イチローがいる球団の二軍にいるようなものかな。君を指導する教授は立派な成果がいくつもあるから、お金をたくさん持っている。別の所に行ってみると、自分のいたところが恵まれていたと気付くんじゃないかな。大事なものは失ってから気付くとでもいうのか」
「似たような経験をしたことがあります。僕はむかし学校の写真部にいて、放課後は毎日暗室作業をしていました。モノクロフィルムを現像し、紙に焼き付けるんです。あるとき顧問とどうしても意見が一致しなくて、抗議の意を込めて写真部をやめました。別に写真部じゃなくても写真は続けられる、そう思っていたんです」
「なるほど」
「じゃあ実際にまたモノクロ写真を続けようとするとどうすればいいのか。僕は市の美術館が持っている暗室を使うことにしました。お金のない高校生には無料というだけでありがたかった。でも実際写真部にいたころと同じクオリティーを無料暗室で再現しようと思っても、なにもわからなかった。いったい現像用品はどこで買えばいいのか、印画紙は何がいいのか。結局通信販売で揃えられましたけど、おこづかいも多くないし、写真部にいたころのような贅沢なプリントは再現できなかった。備え付けの機材一つとっても、うちの写真部にあったものとは格段に劣るものでした。全国大会で優勝した経験があるような部だったから、機材に充てる予算をたくさん持っていたんですね」
「いい経験をしたね。俺だってもし今のラボを追い出されたら、薬品の買い方だって怪しい。とにかく、君は実験するには恵まれた環境に置かれたんだ。イチローの下で野球を学べるようなものだよ。それを十分に生かしてほしいね。ああ、そういえばさっきの話に戻ると」
「オリジナリティの話ですか」
「うん、そう。自分が与えられた研究テーマは本当に自分でなければだめだったのか、と思うようになる。隣の研究室にいる○○君がもし自分のテーマを進めていたら、やはり同じ結果を出したんじゃないかってね」
「学生実験みたいですね。学ぶべきことはすでに決まっていて、手順は本に書かれている。レポートには期待された答えを書けばいい。自分たちは実験を通して試行錯誤しながら新しいことを学んでいるようだけど、それって実は教授達の決めた通りに動いているだけなんじゃないかって」
「学生実験と比べるのは極端だけど、そんな感じかな。自分がいなければこの研究は、この領域は決して成立することはなかった、そう思えるようになるのが夢だ。俺が研究に命を賭けようと思えるのは、その夢があるからだ。俺もまだ若いから確かなことは言えないけどね、教授はいつか弟子に自分と同じ段階で悩んでもらいたいんだよ」
「それってどういうことです」
「学生の君は若いから、まだ初歩的なことで躓くだろう。そういうとき遠慮なく周りに質問していけば、自分の独力で頑張るより早く上達する。だから恥じずに質問することだね。ところで教授はプロだから、他の人には想像がつかないようなレベルの高いところで悩む。君が仮に悩んでいたとして、教授はむかし同じことを悩んで乗り越えただろう、あまり大きな問題ではない。でも教授は長い目で計画を立てている。必然的にその悩みは深遠、難解だ。もし君が同じ悩みを持つようになったら、君は教授と同じレベルに立ったということだ。もう弟子扱いしていられないし、君の意見と本気で取り組むようになるだろう」
「そこまで何年かかるでしょうね」
「俺だってまだその域には達したとは言えないだろう。若手だからね。今日はB4の君にはまだ早い話が多かったけど、とりあえず教授の出したテーマに完璧を目指して取り組んでみることだ」
「ええ、なんとかやってみます。ありがとうございました」
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