先日の3月11日で、東日本大震災が起こってから5年が経過した。
今日は5年前に自分が何をしていたか記そうと思う。
5年前、僕はまだ愛媛で暮らす高校1年生だった。
その日もいつも通り高校に来ていた。確か金曜日だったと記憶している。
僕は午後、数学の授業を受けていた。
数学の先生には中学1年生の頃から4年間お世話になっていた。
先生は五十代後半の小柄な人で、病気がちだった。糖尿病、喘息、虫歯など、日本人がよく知っているような病気にはほとんど罹患していた。平熱は38度台で、夏でもセーターを着ていた。先生は「この間同級生の医者のところで『お前、このままじゃ死ぬぞ』と言われたよ」とか、「今度は○○という病気になったのでなかなかしんどい」とか、お得意のブラックジョークでよく僕たちを笑わせた。僕たちも呑気なもので、「もうすぐ亡くなりそう」「病気の百科事典」だとか、先生について好き勝手な噂をしていた。重い病気をいくつも抱えているにもかかわらず楽観的な先生は、多くの生徒から慕われていた。
しかし先生は、それだけの理由で慕われていたのではない。
いつも生徒のことを大切に考えている、菩薩のように優しい人だったのだ。宿題を忘れても「しょうがないなぁ…。テストまでにはきちんと提出するんだよ?」と一言済ませるだけだったし、体罰を下すことは決してなかった(今でこそ体罰が問題視されるようになったが、当時まだ母校では教師による体罰がありふれていた)。同級生や保護者たちは、心苦しい状況をあえて先生だけに打ち明けることが多かった。それだけ先生は信頼されていたのだ。
時折先生は激昂したが、それは僕たち自身が非常識な振る舞いをするときに限られていた。
先生は生徒が社会常識を身に着けるために指導をしていた。
僕たちもその意向がなんとなくわかっていたためか、先生は自然と慕われていた。
その日の数学は、高校1年生最後の授業だった。
あるクラスメイトは翌日から始まる期末試験に備えて授業を脇目にテスト対策をしていたし、別のクラスメイトはたっぷりと残った手つかず宿題を、大急ぎで書き写していた。僕は眠気のために黒板を虚ろな目で見ていた。
先生はいつものように淡々とテキストを進めていたが、授業の終わる十分前になって「実は大事な話があります」と言った。時計は三時ちょっと前を示していたと思う。
「これまで君たちと4年間過ごしてきたけど、来年は担当できなくなってしまった。僕は知っての通り病気がちで、これから大切な受験期を迎える君たちを指導するには体力的に心許ない。そろそろ定年が近いし、6年間面倒を見られるとしたら君たちが最後になるはずだったんだけど、希望が通らなかった」
先生が僕たちの担当から外れてしまうというのは、クラス全体にとって大きなニュースだった。みんな驚いていたし、残念な表情を隠せない様子だった。もちろん「やめないで」と漏らした生徒もいたが、そんな無理が通らないことは誰もが自明に分かっていたと思う。教務が一度決定した方針が生徒の意向で覆るなどあり得ない。
そして先生は続けてこう残した。
「『建設は死闘、崩壊は一瞬』だ。とても残念だけど、来年からも新しい先生のもとで引き続き頑張ってほしい」
先生がいなくなる、それは喪失感を伴うビッグニュースだった。
その報せを聞いた帰り道、僕は「残念だなぁ」と呟きながら畦道で自転車を走らせていた。ペダルを漕ぐ足が自然と力んだ。その頃、日本の東側が大混乱に陥っているとはつゆも知らずに。
自宅に着いて、パソコンのスイッチを付けた。すぐにintelのロゴが現れ、Windowsが立ち上がる。僕はいつものようにGIGAZINEを開いた。
そしてある記事に目が釘付けになった。東北を大地震が襲って、大津波が来たらんとしている。
僕は慌ててテレビをつけ、NHKを確認した。テロップは記事同様の事態を知らせている。こじんまりとした海際の地方都市が映っていた。
一つ変わった点があったとすれば、大きな津波の到来を予告する日本地図が、右下で恐ろしく点滅していたことである。
アナウンサーが尋常ならざる口調で視聴者に避難を要請している。
隣でテレビを見ていた母も、四十何年かの人生のなかで、これは異常事態であると察知したらしい。画面を真剣に見る顔からそれが伺えた。
画面の右側から水が押し寄せ、道路、ガソリンスタンド、建物、その他もろもろを飲み込んだ。
人間は映っていなかったが、おそらく何人かがその瞬間津波に飲まれたのだろう。アナウンサーは何も語らなかった。
数分もしないうちに画面は水面だけを映していた。街は泥水に沈んだのだ。
僕は母と顔を見合わせた。母も今見たものが本当に起こったと信じられなかったようで、表情が驚きに満ちていた。
僕はチャンネルを変えた。別の街が沈んでいた。またチャンネルを変えた。津波が勢いよく田圃をなぞっていた。
夕方になると徐々に詳細が判明した。
死者は千人に上るという。その後も死者数はテレビを見るたびに増えていった。死者数は、まるで、時間依存の単調増加関数のように振る舞った。
「街ごと津波に飲み込まれた」「東京では帰宅困難者が街を彷徨っている」「再び余震が起きた」
そう遠くないところで非日常的、破壊的状況が進行しているというのは、愛媛でニュースを見ている自分たちには理解・想像の及びにくいことだった。
ニュースは惨状を示していたが、ここ愛媛では、普段通りに日常が進んでいた。
パソコンの電源をつけなければ、津波が起きたことすら気付かなかったかもしれない。
僕には、東北に親戚や友達が一人もいない。
おそらく地震に実体を感じにくかったのは、それも理由にあったのだろう。
その一方、先生が発した警句があまりに予言的だったことを僕は空恐ろしく感じていた。「建設は死闘、崩壊は一瞬」──何年もかけて出来上がった街は、たった今、画面の中で消失した。その警句が、俄かに写像を伴って僕の前に迫ってきた。
僕はしばらく「崩壊」を畏怖し、人間の為す所業は自然の前では虚しく、破壊されるべき運命にあると悲観に暮れていたように思われる。
建設の後に待ち構える崩壊、それについて自分なりに何かを考え、結論を演繹し、対峙するには、僕はまだ経験が少なく、幼かった。
東日本大震災に端を発したその悲観論と向き合うのはまた先の話になるのだが、今回の本題とは話がそれるので、今日は敢えて記さない。
その晩、僕は作ったばかりのウェブサイト(MARBLETTE)に、被災者に関心を寄せる旨のコメントをしたのを記憶している。
愛媛にいる高校生の自分に何かできることがあるとすれば、その程度のことしかできないことに不甲斐無さを感じていた。
しかし、無関心であるよりは、なんらかの意を示すことが、被災者に対してとるに適切な態度であると無意識的に気付いていたように思われる。
そのあと僕は翌日のために試験勉強をして、就寝した。
僕は愛媛で日常を過ごし、自分に与えられた課題を為すべきだったからである。
あるいは理由はもっと簡単で、4年間お世話になった先生の出題する最後のテストで失敗し、残念な思いをさせたくなかったからかもしれない。
偶然とはいえ、大震災を予見したような達観的発言をした先生に、当時畏敬の念を覚えていたのは事実である。
僕は5年前、2011年3月11日、そのように過ごしていた。
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