2016年3月27日日曜日

新宿のカメラ屋をはしごする

新しいレンズをつけたF3
懲りずにまたレンズを購入した

今日は新宿に出かけ、中古カメラ店を何軒か回っていた。
目的は「50mm標準レンズ」である。

僕は普段NikonのフィルムカメラF3に広角28mmをつけてほとんどの撮影を済ませている。
28mmの画角は広角のスタンダードと言われるように使いやすい。
旅先の風景を収めたいとき、多くのシチュエーションは28mmで対応できる。
ただ、人物撮影など、もっと狭く場面を切り取りたいこともある。
そこで「50mmレンズ」を購入することにした。
50mmレンズは一度使ったことのある画角だったから慣れている。
それに50mmは玉数が多いから、明るくて安いレンズが手に入りやすい。夜間や室内での撮影にも効果を発揮するだろう。

まずカメラのキタムラ新宿西口店に立ち寄った。
エレベータを4Fで降りると、まず左手のコレクター商品が目に入った。
「Noct Nikkor 58mm F1.2 刻印誤字 超希少」
レンズに顔を近づけてみると、"Noct-NIKKOR"と刻印されるべきところに"Nocf-NIKKOR"と書かれている。
ただtがfになっただけでプレミア価値がつくことが馬鹿々々しくに思われてつい笑ってしまったが、値札には「69万円」と書かれていた。
相場の二倍以上ではないか。国立大学の学費一年分よりも高い。
ノクトニッコールが夜景撮影にきわめて優れた性能を発揮する名オールドレンズであることは知っていたが、tとfを間違えただけでその価値が2倍になるとはただ驚くばかりだ。
もちろん買えないのでその場は立ち去る。
そのまま奥のニコンコーナーに近寄ると、2本の50mm F1.4のMFレンズが目に入った。
Ai-S時代のものと、Ai改造を施されたNikkor Autoが陳列されている。
Ai-Sは15000円、Nikkor Autoは8000円。
外観はそれほど汚れていないし、状態もBランク以上だった。
これは悪くない、と目星をつけたところで、店を出た。

キタムラから歩いてすぐの所に、新宿中古カメラ市場がある。
ここは銀塩カメラやオールドレンズの品ぞろえが豊富で、すでに生産終了されたアクセサリーでも簡単に手に入る。
ニコンのMFレンズももちろん多くあるはずなのだが…今日に限って全く50mm F1.4が見当たらない。
あったとしてもAi改造されていないNikkor Autoだ。
Nikkor Auto時代のレンズでも僕の持っているF3に装着はできるが、絞り込み測光しかできない。
ピントを合わせやすさと速射性が落ちそうだから、今回はパスした。
Ai 50mm F2が何本か置いてあった。これも悪いレンズではない。ニッコール千夜一夜物語に記事があるほどの名品なのだから。
ただ、僕はせっかくなら今まで使ったことのないF1.4の明るさを体感してみたかったし、昔Ai-S 50mm F1.8なら持っていたから今更F2を買う気にはならなかった。
Ai-S 50mm F1.8はコンパクトで安いがよく写る名レンズだったけれども、鏡筒が短いのでピント合わせに苦労した。そのうち使うのが面倒になり売ってしまった。
フラグシップ機F3にコンパクトなF1.8はアンバランスだったのだろう。Nikon EMくらい小さなカメラと合わせて使えば良かったのかもしれない。
ここに来たついでに、Leicaのコーナーも見ていた。
レンジファインダー機は軽いし、50mmレンズをつけて使うなら悪くない選択肢だ。それに写真を趣味にしているものとして、いつかLeicaを持ってみたいという淡い願望がある。
Leica IIfが目に入る。
バルナックライカの名機Leica IIIfからいくつかの機能を削って作られたIIfだけれども、腐ってもLeicaだ。精巧な作りゆえに、いまだこれを愛用するカメラマニアもいる。
最高シャッター速度は1/1000秒だから後期型のようだ。お値段は19000円。えっ、本当にLeica?
20000円で動作品Leicaオーナーになれる千載一遇のチャンスが図らずも来てしまった。
店員に頼んで、触らせてもらう。初めて触るLeicaだ。緊張を覚える。
外観は汚れているが、実用には問題なさそうだ。所有欲をそそられる。
「これで適当なLマウントレンズそろえれば僕もLeicaで写真を撮る粋な趣味人になれる…」そう思ったところで、目が覚めた。
もしこれを買ってしまったら、必ず僕はLeica純正レンズを欲しがるだろう。きっとサードパーティーのLマウントレンズでは納得しない。
僕はそういう性格なのだ。
運よくエルマー50mm F3.5を手に入れたとして30000円は下らない。
自己分析によると、僕は汚れた中古品はメンテナンスしないと気が済まないだろうから、さらにオーバーホール代に50000円はかかりそうだ。
ちょっとお手軽価格でLeicaを手に入れたつもりが、奨学金まで溶かしてスッカラカン…という結末が見えたので、今回はIIfを諦めることにした。
見栄を張って買い物すると大抵ロクな目に合わない。
「Leica……今度きみに触れるときはもっと僕が大人になってからだな……」
そう心でつぶやいて店を出た。

中古カメラBOXは道路沿いの地下にある。
店内には所狭しと中古カメラが並べられている。
まるで秘密基地に来たようだ。
まっすぐニコンMFレンズコーナーに向かうと、レンズがいつになく多く置かれている。
後ろのほうで店主が客と思しき男性と「昨日ニコンのAiがずいぶんたくさん入ってきたんだよナァ」と歓談している。なるほど、そういうわけか。
Ai時代の50mmはもちろん、Ai-S時代の50mmも10本近くあったように思う。
特にAi-S 50mm F1.8だけで5本は売られていた。「大人気」とタグが張られている。あのレンズそんなに人気だったんだ…もう売っちゃったけど。
品ぞろえは多かったものの、カメラのキタムラで見つけた50mmよりは若干値段が高かった。
もう一度カメラのキタムラに出直し、最後の選定に移ることにした。

キタムラで先ほどの50mmレンズを2本指定し、見せてもらう。
値段の割にどちらも外観はよく、中に若干ホコリがみられる程度だ。カビは生えていない。絞り羽根に油は浮き出ていない。
Ai改造されたNikkor Autoならば、Nikon F3につけても絞り開放測光ができる。値段は8000円だ。
Ai-Sならば現在でもNikonから販売されているので、壊れてもメーカーのサポートは問題ない。値段は15000円。
数分ほど思案した末、「Nikon F3で普通に使えるレンズが安く手に入るならそれでよかろう」と判断し、Nikkor Autoを購入することにした。
店を出て、新しいレンズ(といっても40年以上前のレンズなのだけど)をF3に装着した。
ヘリコイドは軽めだけど、F1.4と明るいレンズだからピントはつかみやすい。
何枚か試射したのち、「良い買い物だった」と確信し、僕は満面の笑みを浮かべた。

古いレンズだから、コーティングは今のレンズほど効果的ではない。
ハレ防止のためフードを買い足したほうがいいだろうが、現行品のフードはデザインが味気ないし、高い。
再び中古カメラBOXを訪れ、Nikonの純正フードを探した。
すぐに700円で良い感じの純正金属製フードが見つかった。
白抜き文字でFと刻印されている。まるでNikon Fが販売されていたころのフードだから、Nikkor Autoとはよく似合うだろう。
レジに現物を持っていくと、店主はレジを打ちながら「えっ?お客さんこれ700円で見つけたのかい、この型ちょっと珍しいんだけどね。ラッキーだね」と笑っていた。
ははぁ、さては値段をつけ間違えたのだな。確かに、同時期に生産された金属製フードはどれも2000円以上の値がついていた。いずれにせよ、買ってしまえばこちらのものだ。
「Nikkor Autoに似合うフード探していたんで助かりましたよ」と笑いながら僕は答えた。
50mm F1.4に適合する現行品フードはHS-5だが、新品だと1200円する。フード代が500円節約できたのは幸いだった。

家に帰り、D5000に先ほど買ったレンズをつけて試射をした。
D5000にはAi連動機構がないからこのレンズをつけるとマニュアル撮影しかできないが、それでもこんな昔のレンズを現代のデジタル一眼に装着できるのはニコンならではの話だ。
Fマウントは1959年のNikon F発売以来、ずっとニコンの一眼レフカメラに採用されている。
長期間にわたり同一マウントを採用しているから、最近のデジタル一眼カメラユーザーでもオールドレンズの描写を楽しむことができる。
レンズを選ぶ際に選択肢が多いこと、これはFマウントユーザーの受けられる最大の恩恵だ。
オールドレンズで撮った写真
Nikkor S・C Auto 50mm F1.4 / F5.6 1/30sec
絞り開放ではさすがに色収差が目立ったが、F5.6に絞ればグッと締まった描写をしてくれる。
フォーカスエイドが働くので、マニュアル撮影とはいえそこまでの苦労は感じなかった。
ただし、あくまでこのレンズはF3のために買ったのだから、デジタル一眼で使いにくくてもあまり問題ではない。
F3はマニュアルフォーカス時代の一眼らしくファインダーは見やすいので、このレンズのピント合わせは肉眼でも十分可能だ。
フォーカスリングの短さが気に入らなくて売ってしまったAi-S 50mm F1.8より、ピント合わせの感触に好感が持てる。
来週には桜が満開になり、撮影日和になる。実戦利用の機会は早速ありそうだ。
散歩用レンズ・夜間撮影用レンズとして、すでに持っている28mm F2.8と共に大活躍してくれそうである。

2016年3月20日日曜日

Dell Latitude E6220のレストア

今日は秋葉原に行き、ジャンクノートPCを物色していた。

「10000円以内で、HDD欠品で、Intel Core i5搭載の、可動品ジャンクPCはないかな…」と思っていたところ、ある路上販売が目に入った。
「Core i5搭載!HDD・メモリーなし BIOS起動確認 8000円 ノートPC」
これはまさに自分が求める条件だ。
ACアダプターも付属するという。かなりお買い得だ。
手に取ってみたところ、外見は摩耗しているもののキーボード・トラックパッドは比較的綺麗だった。
実用上の問題は無さそうだと判断し、そのまま購入した。
それから近くのPCパーツ店「ショップ・インバース」に立ち寄り、4GBのジャンク中古メモリを購入した。
メーカーはCFD Elixirで、規格はDDR3 SO-DIMM PC3-10600である。
Thinkpad X200で長らく使用しているメモリと全く同じ型番だったので、問題なく動くだろうと判断したのである。
Dell Latitude E6220
Dell Latitude E6220 8000円
家に帰ってから型番を調べると、「Dell Latitude E6220」とのことだった。
CPUはCore i5 2520Mだ。Core i5の第二世代、クロック数は2.5GHzだから今でも十分実用的な性能だろう。
液晶は12.5インチワイド(1366×768)だった。小さめだけれども、持ち歩くならこれくらいのサイズがちょうどよい。
もともと入っていたOSはWindows 7 Proだったようである。今回はWindows 10 64bitをインストールするつもりだから、これは正直どうでもいい。

裏蓋を外した様子
裏蓋を外した様子

さっそく裏蓋を開け、簡単に筐体内の掃除をした。
裏蓋を固定するネジはたった1本だった。DellやLenovoのような海外メーカーのノートPCは分解しやすい。アマチュア修理屋にとってはありがたい話である。

このPCには2.5インチベイが1か所存在し、7mm厚までのHDD/SSDに対応している。
多くの2.5インチ内蔵HDDは9.5mm厚だからこのPCには収まらない。
僕が使おうとしたSSDは9.5mm厚だったけれども、黒い枠と表側の蓋を外せばぎりぎり7mmを下回る。基板がむき出しになってしまったが、上から絶縁性の膜を被せるのでショートする危険性はなさそうだ。そのまま使うことにした。
蓋と枠を取り去って無理やりSSDを嵌め込んだ

そしてメモリを嵌め込む。もし相性問題が起きてもThinkpad X200に使えばいい。今回のメモリ交換は気が楽だ。
今回使用した規格はDDR3 SO-DIMM PC3-10600
電源を入れると無事BIOSが立ち上がった。SSD・メモリは無事認識されている。
ここまで来ればもう失敗する恐れはない。8000円のジャンクPCは息を吹き返したのである。
メモリが認識された

SSDも無事認識された

手元にはWindows 7 Pro 32bit版のライセンスキーとインストールディスクがあった。
しかし今はWindows 10の時代だ。せっかくWindows 10 64bit版のインストールディスクを持っているから、今回はこれを導入しよう。

一番確かな手段はまずWindows 7 32bit版をインストールし、Windows Update経由でWindows 10 32bit版にアップグレード、その後インストールメディアで64bit版をクリーンインストールすることだ。
しかしこの手段は少なくとも3回の作業を伴う。
事前情報によると、Windows 10のインストール画面でプロダクトキーの入力を求められる際、Windows 7/8のもので代用できると聞いていた。
時間が節約できるので、今回は後者の手段でインストールしてみよう。

E6220には光学ドライブがないから、外付けDVDドライブでWindows 10 64bit版のインストールメディアを読み込む。
プロダクトキーにはWindows 7のものを入力した。
あっけなく認証は通り、Windows 10 64bit版のインストールが始まった。
Windows 10をインストールする
30分ほど放置しているうちにインストールが無事終了した。
8000円のジャンクノートPCは、3000円の追加投資(メモリー代)と、余っていたライセンス・SSDによって、見事復活を遂げた。
復活した8000円ジャンクノートPC
これまで使っていたCore 2 Duo搭載のThinkpad X200と比べると、格段にレスポンスが良い。
今日からはLatitude E6220をメインで使うことにしよう。
僕もようやくCore i5ユーザーである。

※3/21 追記
Windows 10ではいくつかのデバイスが自動でインストールされなかった。
「PCI シリアルポート」「大容量記憶域コントローラ」「不明なデバイス」「Broadcom USH」の4つである。
ネットで調べてみたところ、これらのデバイスはWindows 7 64bit用のドライバを適用すると認識されるようだ。
必要なドライバはDellのウェブサイトからダウンロードすることができる。
以下に各デバイスとドライバの対応関係を列記する。
E6220向けの情報ではないが、Dellのサポートにある記事も参考になる。
  • 「大容量記憶域コントローラ」 チップセット - O2 Micro OZ600xxx Memory Card Reader Driver
  • 「不明なデバイス」 アプリケーション - ST Microelectronics Free Fall Sensor Driver
  • 「Broadcom USH」 Dell Data Protection - Dell Data Protection | Access
「PCIシリアルポート」はどのドライバで動くのか、まだわかっていない。

2016年3月13日日曜日

五年前の三月十一日

先日の3月11日で、東日本大震災が起こってから5年が経過した。
今日は5年前に自分が何をしていたか記そうと思う。

5年前、僕はまだ愛媛で暮らす高校1年生だった。
その日もいつも通り高校に来ていた。確か金曜日だったと記憶している。
僕は午後、数学の授業を受けていた。
数学の先生には中学1年生の頃から4年間お世話になっていた。
先生は五十代後半の小柄な人で、病気がちだった。糖尿病、喘息、虫歯など、日本人がよく知っているような病気にはほとんど罹患していた。平熱は38度台で、夏でもセーターを着ていた。先生は「この間同級生の医者のところで『お前、このままじゃ死ぬぞ』と言われたよ」とか、「今度は○○という病気になったのでなかなかしんどい」とか、お得意のブラックジョークでよく僕たちを笑わせた。僕たちも呑気なもので、「もうすぐ亡くなりそう」「病気の百科事典」だとか、先生について好き勝手な噂をしていた。重い病気をいくつも抱えているにもかかわらず楽観的な先生は、多くの生徒から慕われていた。
しかし先生は、それだけの理由で慕われていたのではない。
いつも生徒のことを大切に考えている、菩薩のように優しい人だったのだ。宿題を忘れても「しょうがないなぁ…。テストまでにはきちんと提出するんだよ?」と一言済ませるだけだったし、体罰を下すことは決してなかった(今でこそ体罰が問題視されるようになったが、当時まだ母校では教師による体罰がありふれていた)。同級生や保護者たちは、心苦しい状況をあえて先生だけに打ち明けることが多かった。それだけ先生は信頼されていたのだ。
時折先生は激昂したが、それは僕たち自身が非常識な振る舞いをするときに限られていた。
先生は生徒が社会常識を身に着けるために指導をしていた。
僕たちもその意向がなんとなくわかっていたためか、先生は自然と慕われていた。

その日の数学は、高校1年生最後の授業だった。
あるクラスメイトは翌日から始まる期末試験に備えて授業を脇目にテスト対策をしていたし、別のクラスメイトはたっぷりと残った手つかず宿題を、大急ぎで書き写していた。僕は眠気のために黒板を虚ろな目で見ていた。
先生はいつものように淡々とテキストを進めていたが、授業の終わる十分前になって「実は大事な話があります」と言った。時計は三時ちょっと前を示していたと思う。
「これまで君たちと4年間過ごしてきたけど、来年は担当できなくなってしまった。僕は知っての通り病気がちで、これから大切な受験期を迎える君たちを指導するには体力的に心許ない。そろそろ定年が近いし、6年間面倒を見られるとしたら君たちが最後になるはずだったんだけど、希望が通らなかった」
先生が僕たちの担当から外れてしまうというのは、クラス全体にとって大きなニュースだった。みんな驚いていたし、残念な表情を隠せない様子だった。もちろん「やめないで」と漏らした生徒もいたが、そんな無理が通らないことは誰もが自明に分かっていたと思う。教務が一度決定した方針が生徒の意向で覆るなどあり得ない。
そして先生は続けてこう残した。
「『建設は死闘、崩壊は一瞬』だ。とても残念だけど、来年からも新しい先生のもとで引き続き頑張ってほしい」

先生がいなくなる、それは喪失感を伴うビッグニュースだった。
その報せを聞いた帰り道、僕は「残念だなぁ」と呟きながら畦道で自転車を走らせていた。ペダルを漕ぐ足が自然と力んだ。その頃、日本の東側が大混乱に陥っているとはつゆも知らずに。
自宅に着いて、パソコンのスイッチを付けた。すぐにintelのロゴが現れ、Windowsが立ち上がる。僕はいつものようにGIGAZINEを開いた。
そしてある記事に目が釘付けになった。東北を大地震が襲って、大津波が来たらんとしている。
僕は慌ててテレビをつけ、NHKを確認した。テロップは記事同様の事態を知らせている。こじんまりとした海際の地方都市が映っていた。
一つ変わった点があったとすれば、大きな津波の到来を予告する日本地図が、右下で恐ろしく点滅していたことである。
アナウンサーが尋常ならざる口調で視聴者に避難を要請している。
隣でテレビを見ていた母も、四十何年かの人生のなかで、これは異常事態であると察知したらしい。画面を真剣に見る顔からそれが伺えた。
画面の右側から水が押し寄せ、道路、ガソリンスタンド、建物、その他もろもろを飲み込んだ。
人間は映っていなかったが、おそらく何人かがその瞬間津波に飲まれたのだろう。アナウンサーは何も語らなかった。
数分もしないうちに画面は水面だけを映していた。街は泥水に沈んだのだ。
僕は母と顔を見合わせた。母も今見たものが本当に起こったと信じられなかったようで、表情が驚きに満ちていた。
僕はチャンネルを変えた。別の街が沈んでいた。またチャンネルを変えた。津波が勢いよく田圃をなぞっていた。
夕方になると徐々に詳細が判明した。
死者は千人に上るという。その後も死者数はテレビを見るたびに増えていった。死者数は、まるで、時間依存の単調増加関数のように振る舞った。
「街ごと津波に飲み込まれた」「東京では帰宅困難者が街を彷徨っている」「再び余震が起きた」
そう遠くないところで非日常的、破壊的状況が進行しているというのは、愛媛でニュースを見ている自分たちには理解・想像の及びにくいことだった。

ニュースは惨状を示していたが、ここ愛媛では、普段通りに日常が進んでいた。
パソコンの電源をつけなければ、津波が起きたことすら気付かなかったかもしれない。
僕には、東北に親戚や友達が一人もいない。
おそらく地震に実体を感じにくかったのは、それも理由にあったのだろう。
その一方、先生が発した警句があまりに予言的だったことを僕は空恐ろしく感じていた。「建設は死闘、崩壊は一瞬」──何年もかけて出来上がった街は、たった今、画面の中で消失した。その警句が、俄かに写像を伴って僕の前に迫ってきた。
僕はしばらく「崩壊」を畏怖し、人間の為す所業は自然の前では虚しく、破壊されるべき運命にあると悲観に暮れていたように思われる。
建設の後に待ち構える崩壊、それについて自分なりに何かを考え、結論を演繹し、対峙するには、僕はまだ経験が少なく、幼かった。
東日本大震災に端を発したその悲観論と向き合うのはまた先の話になるのだが、今回の本題とは話がそれるので、今日は敢えて記さない。

その晩、僕は作ったばかりのウェブサイト(MARBLETTE)に、被災者に関心を寄せる旨のコメントをしたのを記憶している。
愛媛にいる高校生の自分に何かできることがあるとすれば、その程度のことしかできないことに不甲斐無さを感じていた。
しかし、無関心であるよりは、なんらかの意を示すことが、被災者に対してとるに適切な態度であると無意識的に気付いていたように思われる。

そのあと僕は翌日のために試験勉強をして、就寝した。
僕は愛媛で日常を過ごし、自分に与えられた課題を為すべきだったからである。
あるいは理由はもっと簡単で、4年間お世話になった先生の出題する最後のテストで失敗し、残念な思いをさせたくなかったからかもしれない。
偶然とはいえ、大震災を予見したような達観的発言をした先生に、当時畏敬の念を覚えていたのは事実である。

僕は5年前、2011年3月11日、そのように過ごしていた。

2016年3月6日日曜日

愛知

今週は帰省を終え、空路で中部国際空港に飛んだ。

僕の所属する学科では、三年生のこの時期に集中講義として工場見学を行う。
その一環で、僕は東海地方の工場(正確には、全国的に展開する企業が東海地方に持つ工場)を何か所か見学した。
化学系の学生が企業に就職した場合どのようなキャリアを歩むのか、化学は工業とどのように結びついているのか等について学習できる良い機会だった。

個人的にプラントの景観は好きなのだが、今回訪問したほとんどの工場で写真撮影が禁止されていたため、あまり写真が残っていないことが口惜しい限りである。

役目を終えたプラント。解体されるのを待つのみである。