20分ほどでT市にある父の実家が見えてくる。あたりは田圃ばかりで、どの田圃にも雑草が茂っていた。川のそばで作業していた祖母は一瞬手の動きを止め、僕と父に向って手をあげて挨拶をすると、再び里芋を掘り起こす作業に戻った。僕はそのまま祖父母宅に車を寄せてエンジンを止めた。そこは駐車の難しいところで、僕は何度かエンストさせた。
父は勤め人だが、週末に仕事がないときにはよく専業農家である祖父母の家業を手伝う。この日も、父は田起こしをするため実家へ来たのだった。父はまず農業用トラクターにかかっていた布団を払いのけた(祖父母宅のトラクターは何故かいつも布団がかけてある。何のための配慮か、よくわからない)。トラクターはあまり大きいものではない。幅は1.5メートルもないくらいだ。何度かスターターロープを勢いよく引くと、エンジンは轟音を鳴らし始めた。父はおもむろに座席に乗り、「後退」と印された場所にギアを入れた。耕運機は亀のように遅い動きで後ずさりし、やがてすぐ近くの田に侵入して土を掘り起こしはじめた。
祖母はトラクターのそばで忙しく動き回っている。父に合図しつつ、里芋を掘り起こしている。足元には引き抜かれた人参が4本あった。見栄えの良くない人参だったから、おそらく値はつかないだろう。このような野菜は、よく自分たちの食卓に並ぶ。新鮮だし、味は悪くない。
耕運機は田の模様を変えていった。雑草は耕運機に土ごと掻き込まれ、砕かれ、吐き出される。車の通った跡には生命力を失った雑草の残骸が積まれていく。父は慣れた手つきでハンドルとギアをさばき、10分ほどで田の全域を掘り起こした。そして再びもとの場所へトラクターを移動させ、エンジンを止めた。3年前に祖父が脳の病気で倒れてから、祖父母の所有するほとんどの田は貸し出されている。今では耕運機を使うほど広くはない耕作範囲だが、老いた祖母には従来の方法で田を処理する体力がない。祖父の損失を補うため、家族で唯一免許を持つ父が休日に家業を手伝っている。
農作業を終えると、築90年の寂れた家屋に入った。古い家らしく、どこからともなくすきま風がやってきて、体を冷やす。日当たりも良くないから、昼間でも家中は夜のように暗い。父と僕は、かろうじて明るい窓際に腰を下ろした。そのうち祖母が茶を淹れて持ってきた。「東京は寒いかね」と祖母が尋ね、「そうでもない」と僕が答える。何度か問答があったのち、僕は畳に横たわった。祖母はどこかに行ってしまった。床の寒さが身に染みる。目をつぶると眠気が襲ってきて、そのまま眠った。
目が覚めてから帰り支度し、近くの病院にいる祖父を見舞った。昔は恰幅の良かった祖父も、3年の寝たきり生活ですっかり痩せ細った。それでも体調は安定していて、頬をつつけば「アー」と声を出す。呼吸は確かだ。祖母はシェーバーを取り出して髭を剃りつつ、孫の見舞いを祖父に伝えた。言葉の意味が分かっていないのか、あくびをしたり、「アア」と言ったり、条件反射的反応を見せる。高齢のわりに髪の毛はまだ多く残っていて、額の生え際は僕よりも狭い。隣には祖父よりも若い老人が寝ていて、しきりに手をさすりながら窓の外を見ている。看護師がやってきて、血圧計を巻き付けます、と老人達に喋りかける。若い老人は「ああ」と呟く。祖父は何も答えない。
祖父は、3年前から同じように、ベッドの上で生きている。まだしばらく終生をそこで過ごすのだろう。僕は祖母に一言告げて、写真を撮った。もう何年も祖父の写真を撮った者はいないはずだ。ネガフィルムを巻いて、僕は祖父をフレームに収めた。最後に祖父を撮ったとき、たしか彼は田圃で休憩をしていて、帽子をかぶっていた。祖父は緩慢な動きをする人だった。祖父は僕に話しかけるわけでもなく、ポーズをとるわけでもなく、ただ実存していた。撮られた後、おもむろに立ち上がって再び大根を抜きはじめていた。
「じゃ、また来るからな」と祖父に告げて部屋を出た。祖父は何も答えなかった。病院を出て、僕はハンドルを握った。父は助手席に乗っている。祖父はあの部屋で、ベッドに寝ている。軽自動車のエンジンをかけた。車はすぐ動き始めた。僕はギアを1速に入れ、国道11号線に入った。やがて車はT市を抜けた。
祖父を撮ったネガフィルム 2011年 |
0 件のコメント:
コメントを投稿