2015年11月29日日曜日

メモ2

ヨブ記についてユングは、人間であるヨブが罪を自覚している一方、神は罪の意識無しに人間を殺すことを差し、人間は神より優れていると述べたらしい。ユングの精神分析は物語に対して斬新な解釈を生むのが面白いと思う。
しかし実際の人間を分析することにおいてユング心理学は限界があるような気がしている。彼の見方は男女の観念を意識しすぎている。例えばアニマとアニムスでは同性愛について満足のいく説明ができない。「彼は同性愛者についてどのような見方をしていたのだろう?」と、ふと気になった。

2015年11月22日日曜日

メモ1

経験式から覚える感動は理論式のそれより小さい。経験式は理論式のように単純明快な導出を持たないからである。このことから、単なる暗記ではなく、その気になれば自分で由来をたどれる知識をより尊重する傾向が認められる。

2015年11月15日日曜日

写真に関する思い出

 僕が初めて写真を撮ったのは、7歳のときだった。両親は僕を記録に残すため、一台のデジタルカメラを購入した。銀色の、重たいキヤノン製カメラだったと思う。僕は機械好きの少年だったから、時間があるときはこのカメラをクローゼットから取り出し触っていた。お気に入りのぬいぐるみや、家事をする母親などを撮った。隣の県まで行き、離れて暮らす幼馴染を撮った。残念ながらその頃撮った写真は一枚も残っていない。
 撮影行為を明確に意識し始めたのは、中学一年生の夏だった。理由はよく覚えていないが、僕は中学校に進学すると同時に写真部に入った。どこにでもあるようなフィルム式コンパクトカメラにコニカミノルタパンを詰めて、通学路の神社、バスに乗って訪れた神戸を撮った。夏休みが明けると、僕は顧問にベタ焼きを見せた。彼は「あまり上手くはないなぁ」とコメントした。その秋、僕は文化祭に一枚だけ写真を展示した。
 中学二年生の冬、祖母宅から電話があった。「あんた学校で写真やっとるんじゃろう。うちに死んだ爺ちゃんが昔買うたカメラがあるけん、もろておいき。」僕はその次の日、隣町まで自転車をこいで祖母宅に行き、フィルム一眼レフカメラを譲り受けた。Nikon F3である。初めて使う一眼レフカメラに僕はしばらく難儀したけれども、使い方を覚えると、お気に入りのカメラになった。週末は一人で出かけ、公園の木を撮った。遠足があると、ふざけるクラスメイトを撮った。僕の写真は、顧問からは相変わらず不評だった。「テーマがよくわからない」――当の僕も、写真を撮るときにテーマを考えたことなどなかったし、アドバイスの真意を掴めなかった。
 中学三年生の秋に、父がパチンコで大勝ちした。上機嫌な父は「おまえにカメラを買ってやろう」と言った。僕は好意に甘えてデジタル一眼レフカメラを買ってもらった。当時としてはNikon D5000は、並のコンパクトデジタルカメラと比べ画力に雲泥の差を有していたから、僕はすぐ気に入った。修学旅行では、F3とD5000を携えて九州に行った。長崎のめがね橋、ホテルから見える観覧車を撮った。旅行が終わると、撮った写真をクラスメイトに配布した。
 その冬、写真部を退部した。ただ毎日モノクロプリントさせる写真部に楽しさを覚えられなくなった。プリントは忍耐力を要する。暗室に閉じこもって、印画紙に浮かび上がる像の様子をうかがい、適切な像が得られるまで何度も工程を繰り返す必要がある。毎日授業が終わると、僕はひとりで暗室にこもり作業した。もう2009年も終わりの12月下旬、数か月かけて300枚のプリントと数十本のフィルムを現像し終えた僕は、顧問に退部届を出した。写真は依然好きだったけれども、ただ写真部をやめたい感情にとらわれていた。
 高校生になっても一年ほどは写真を続けていた。空いた時間に市の暗室で作業をしたこともあったが、そのうち面倒になってやめた。学年が上がると勉強が忙しくなり、撮影に充てられる時間は無くなった。高校では数えるほどしか写真を撮らなかった。  大学合格を機に、僕は上京した。荷物の中には、一眼レフカメラを忍ばせていた。これから見るものを、自分の記録に残そうと考えたからである。僕は写真サークルではなく、あえて旅サークルに入った。写真部をやめた反省もあったのだと思う。僕は写真を目的ではなく、手段として味わいたかった。週末は東京近郊を散歩し、長期休暇は日本各地を旅行するようになった。会う人々、気に入った光景を僕は撮った。見知らぬ土地でカメラを提げ注意深く対象を探す行為は、思いのほか僕の性格に適合した。
 僕の撮影技術は未熟であるけれども、撮影態度において一つの手掛かりを得た。写真を撮る際、人であれ、物であれ、対象に敬意をもたなければならない。幼児のように瑞々しい感情を持ちながら撮影すること、これは魅力的な写真を撮るために僕が得た経験則のひとつである。対象を見逃してしまうのは、それに慣れてしまっているからである。相手の表情が硬くなるのは、相手を落ち着かせないものを自分が持っているからである。幼児はこの二点で大人に勝る。幼児には良くも悪くも経験がないから、新鮮な感情でものを見る。そのいたいけな姿は、周りの大人に愛しさを催す。曖昧で主観的なルールだが、僕はこれを意識するようになって以降、写真を褒められるようになった。
 モチーフを見出すのは、自分の慣れた場所ほど難しいものだ。そこでは僕たちの常識が、幼児的な感情を阻害するからだ。しかし、優れたスナップショットには日常を描いたものが多くある。注目される写真を撮るには、素材と技術のどちらがより重要か。報道写真家にとっては素材であり、芸術写真家にとっては技術である。もちろんこの二つを持ち合わせた写真家も多くいる。  来週は僕の大学でも学祭がある。ここ最近写真を撮っていないことだし、カメラ片手に、少しキャンパスを歩いてみようか。

2015年11月8日日曜日

英語至上主義について思うこと

 先日本郷キャンパスを赤門から抜けたところ、記者とカメラマンが近づいてきた。「学生の方ですか」と尋ねられたので、「そうだ」と答え、僕はインタビューを受けることに同意した。記者はまず東大の推薦入試導入について質問し、僕は月並みの意見を述べた。学力が十分でない者でも合格してしまうことが心配であるが、噂によると一般入試以上の能力が求められるそうだから、推薦入学者の学力について確実なことは言えない云々。
 記者によると、推薦入学は日本の優秀な高校生が海外に流出することを防ぐ施策だそうである。東大は世界大学ランキングでさらに順位を落とした。このままでは世界に後れをとるのではないか。あなたはこのことについてどう思うか、と記者は言った。
「大学ランキングは論文の本数・引用数などを数値化したものに過ぎず、必ずしも大学をあらゆる側面で評価したものではありません。もし海外のある大学が東大よりも上位に位置したとしても、受験生にとってその大学が東大よりも好ましいとは言えません。日本で生まれ育ち、日本語で教育を受けることに慣れた私たちにとって、日本語で高等教育を受けられる東大は依然魅力的な大学でしょう。」

 東大に入学して間もない頃、僕は東南アジア出身の留学生S君と知り合いになった。S君の国では十数か国の言語が話される。英語はもちろんのこと、たった一年学んだだけの日本語も彼は堪能であった。僕も英語の練習になるから、好んで彼と話していた。そのS君があるとき、自分の国の教育事情について僕に語ってくれたことがある。
「僕は君たちがうらやましい。僕の母語は××語だけど、僕はこの言語で教育を受けられない。マイナーすぎるから。だから英語を勉強したんだ。国の大学では、もちろん××語は使われていない。でも君たちは日本語で大学教育が受けられる。それってとてもラッキーだよ」
 人間は、ふだん言葉でものを考え、意見を表明し、文章を書く。日本で生まれ育った僕たちは、日本語による思考システムを自然と形成する。日本語は僕たちとは切っても切れない関係にある。先人たちが発明した語彙と思考様式は、僕たちの頭の中に蓄えられている。これは普通のことに思われるが、ときに僕たちを欺く。たとえば「時」という言葉を持ち出したとき、僕たちはなにかを連想する。しかし日本語の「時」では、「時計が表示し、それにしたがって人や社会がうごくもの」と「なにかをするのに良いチャンス(時は満ちた、の「時」)」を区別することができない。もしギリシャ語でいう「クロノス」と「カイロス」について知っている人間なら、その二つをすぐ見分けることができるだろう。僕は外国語を学ぶメリットはここにあると思っている。別の言語とそれが有する概念を学ぶこと、これは普段その言語を使わない人間でも世界をよく見通す道具になる、と。別の思考様式を知ることは、自分の思考様式の欠陥を知り修正する役に立つし、未知の思考に対する防御策であると考える。

 しかし、それが実現されるためには、まず肝心の、自分の思考様式をもっている必要がある。ここでの「思考様式」とは、自分の専門、たとえば政治学を専攻する学生なら政治について、物理を専攻する学生なら物理についての基本的な知識を指していて、人間が持つ善悪の観念とは少し異質なものであることを先に言っておく。僕が思うに、このような専門知識は、母語によって語られるとき、もっとも習得されやすいと考えている。難解なものに接したとき、それを自分の知識として消化・吸収するためにはある程度母語を用いて理解の助けとする。専門知識の理解を英語によって行うことはメリットとデメリット両方ある。メリットとしては、論文はふつう英語で読み書きされるものであるから、学んだ語彙がそのまま論文の理解に利用できることである。デメリットとしては、母語によるほど多くの理解が期待できないことだと僕は考える。これに対して反論は多々あるだろうが、好みの問題である。帰国子女で化学者である宮村一夫先生は、あるとき講義で次のようなことを話されていたことがある。「英語を勉強したとしても、専門知識を持っていなければならない」
 学部生の段階では、専門課程への理解を深めることが望ましいと僕は考えている。修士課程以上になれば、論文執筆や国際学会に英語は必要になるだろうが、それはそのとき訓練すればよい話である。僕の専攻分野は、さいわい日本でも盛んだし、日本語による参考書が充実している。その状況下においてあえて英語によって勉強するというのは、日本語による思考様式を得た学生にとってあまり効率の良い方法と思えない。だから僕は、つづけて記者にこうコメントした。
「しかし、受験生にとって東大が最善の選択肢とは限りません。もしその受験生が明確にやりたい目標をもっている、すなわち、○○大学の何某先生のもとで、このような研究をしたい、そのような受験生は東大ではなく、その大学を目指すべきです。ですが、そのように具体的な目標のない生徒にとって、東大は良い選択肢です。僕たちの慣れている、日本語による高等教育が充実していて、なにより頭の回転が早い同期達から、学業の面でも、精神の面でも、多くの刺激を受けられます。そのなかで自分のやりたいことを模索していくのも、悪くない学生生活です。」
 記者には「東大って天才ばかりいるものと思っていましたが、意外と普通の人が多いのですね」とコメントされた。

2015年11月1日日曜日

桜蔭礼讃

 なぜあなたはそんなに桜蔭が好きなのですか」と人からよく質問される。そのたびに僕はたまたま思いついた返事をする。もちろんそれぞれの返事に嘘はないのだが、僕は方々で異なる理由を挙げて桜蔭を褒めている。いい加減確とした答えを用意すべき時期だと考え、今週は桜蔭を崇拝するに至った経緯を記すことにする。
 初めて桜蔭という名を知ったのは、小学五年生の頃だったように思う。僕は地方都市の中学受験塾に入って県内の中高一貫校を目指す決心を固めた。それまで塾に通わず小学校だけでのらりくらりと勉強していたためか、テストの答案は毎月惨憺たる点数を呈していた。
 中学入試ではすべての者が同じ教科で受験する。また、多くの中学校は受験生に対し国語・算数・理科・社会の四科目を要求する。僕はそれなりに勉強しなくてはいけなかった。中学受験塾では小学校高学年になると、実際の入試問題を用いて演習をするようになる。テキストには灘、開成、麻布、桜蔭のような難関校による問題が採録されていた。難関校の問題はもちろん難しい。ゆとり教育に甘んじていた小学生だったので、そもそも問題文を理解できないことさえあった。それに対して悔しがるわけでもなく、僕は「へえ~僕には解けないや。こんな問題が解ける子がいるのか!すごいなあ!」と感心するに過ぎなかった。志望校を突破するためにそこまで高等なテクニックは要求されなかったし、そのころの僕には向上心が希薄だったのである。
 なかでも桜蔭の国語は難解であることで有名だった。塾に入ってしばらく経ち、まず国語の成績が上がった。返ってきた成績表を見ると、僕の国語の偏差値はまずまず高く、あと一歩で全国の難関校を狙える水準に達していた(もちろん国語だけ、という但し書きが入るのだが)。そこで僕は得意になり、女子校で最も難しいと言われる桜蔭中の国語を解いてみようと思ったのである。が、まったく歯が立たなかった。問題文を理解できないのはもちろんのこと、それについて何百字も記述するなどできない相談だった。桜蔭受験生はこれに答える覚悟を有していることに、僕は恐怖を覚えた。恐怖はときに対象への尊敬から起こることを思えば、僕が桜蔭生を特別視しはじめたことは想像に難くないだろう。
 いま思えば、桜蔭中の国語を解くにはある程度の精神成熟が必要だったのだと感じる。数年前の入試問題には哲学者の中島義道氏の文章が出題されている。僕が氏の文章を初めて読んだのはごく最近だが、彼の文章にはひねりが多い。小学生には難解どころか、まったく意味を持たない文章に見えるだろう。たとえば彼が随所で説くニヒリズムを理解できる小学生がいたとしたら、きっと彼は多感な幼少期を過ごしてきたか、教養のある保護者のもとで哲学的に育てられたに違いない。おそらく僕が桜蔭中の国語を理解するには、まだ多くの人生経験が必要だったのだろう。小学校で深い考えもなく毎日遊んでいただけの小学生に、難関校の記述問題は解ける代物ではなかった。
  しかし、難解なテキストを自分なりに理解し、思うところを自由に記述できる能力を、桜蔭中はたった十二歳の少女たちに欲しているのである。もちろんすべての合格者がその能力を達成するわけではないだろうが、部分的にはそれを発揮できるようになっているのだ。小学校六年生の二月までに少女たちが未熟ながら築き上げた人生観・情報発信力を、あえて試験問題として問う桜蔭中には賞賛を送りたい。試験会場でその能力を断片的にでも示せた女の子たちは、同年代と比べ精神的にきわめて発達したクラスメイト達と中高六年間という多感な時期に交感しあうことで、さらに研鑽されるのである。僕は東大に入学したのち何名かの桜蔭卒業生と知り合う機会を得たが、彼女たちは概して同年齢とは思えないほど成熟した精神を有していた。(もちろんこれは桜蔭に限った話ではない。他の難関校卒業生にもみられるが、ただ桜蔭生に顕著だったということである)
 桜蔭に合格できなかった人びとが人間的に劣るとは全く思っていないし、むしろ受験の失敗によって克己心をはぐくむきっかけを得るなら、それはそれで成長にとっては望ましいことだ。しかしながら精神的に成熟した同年齢の集団で暮らすことは、少年少女の感受性に大きく影響を与えるものだと僕は思っている。東大に入学したのちすぐに、僕は難関校の人たちが母校で豊かな文化を営んでいた事実を目の当たりにした。僕の高校では到底流行らなかったような、高度な教養の認められる位置が難関校の「休み時間」には存在したのだと知った。僕はそのような類まれな環境に対し、「うらやましい」と感情を抱いた。
 「桜蔭は素晴らしい」──こう僕が発するとき、そこには自分が築けなかった(むしろ、築かなかったというべきか)高度な文化を目指していくべきだった中高六年間への後悔があるのかもしれない。僕にとって「桜蔭」とは恵まれた六年間への憧憬を意味する記号のような言葉なのだと思われる。つまりいま僕が「桜蔭は素晴らしい」と謳っていくこととは、彼ら・彼女たちが母校で培った文化に自分から迫っていく(追体験し、自分のものとして消化していく)ことの意思表示でもある。
 過去を嘆くことはためにならない。だから自分にはその過去が必要であったと肯定し、改めて「桜蔭は善い、目指していけ」と謳い高みへ前進していくこと、これが僕の桜蔭を称賛する理由である。