2015年10月25日日曜日

黎明

この度、ブログを隔週で書き始めることにした。

しかしながらこれは僕にとって初めてのブログではない。いままで僕は多くのブログやウェブサイトを立ち上げ、数件の投稿を記し、次第に飽きて最後は消去した。僕は決して筆まめな人間ではないし、大して反響も無い文章をたらたらと書く時間が惜しまれたのである。そのうちのいくつかはインターネットの藻屑と化し、検索すればまだ見つけることができる。10年も前に深い考えもなく立ち上げたものだから、もう消去するためのパスワードも忘れてしまった。

僕が明確にSNSで見知らぬ人と関わることを覚えたのは、大学1年生のとき始めたtwitterがきっかけである。そのころ大学の知り合いといえば高校の同級生と語学のクラスメイトが計40人ほどいるきりで、ほかに全く交友関係をもたなかった。さすがに入学後半年も経てば、彼らもほかのコミュニティーに顔を出すようになり、僕はひとりで過ごすことが多くなった。その寂寥感をまぎらわすために僕はtwitterを始めたのである。そこには深遠な世界が広がっていた。最初のうちは知り合いのみをフォローしていたが、そのうち大学が同じ方なら遠慮なくフォローさせていただくようになった。僕の大学には10,000人以上が在籍しているから、フォローする人間には事欠かなかったのだ。彼らのツイートは、僕がオフラインの日常で見聞きするよりも格別に面白いと思えた。僕も負けじと、目立つため、多くフォローされるため、「ネタツイ」を生むことを図るようになった。「面白い」と言われるためなら、不謹慎、卑猥、侮辱を厭わなかった。

しかし今では、そんなことはどうでもよくなった。むしろ自分の良心を歪めてまでtwitterで気に入られようと腐心することに吐き気を催すようになったのだ。twitterの人々は確かに面白いかもしれない。だが、日常で会う人と彼らと、巨視的な観点では何ら変わるところは無い。みな人間なのである。twitterの人々だけを「すぐれている」と崇拝しつつあった自分を恥じた。いつからか僕はtwitterでペルソナを被ることを止め、ただ思うことを述べるようになった。

ところがそれでもtwitterに飽きないのは、何人かのフォロワーに恩義を感じるからである。あるフォロワーはいまでも良い飲み友達だし、別のあるフォロワーは良き人生の師である。彼らに邂逅できただけでもかつて大衆に阿諛した意味はあると考えている。くだらないアンケートをつくれば、「いつもツイート楽しみにしています」と温かい言葉をかけてくれるひともいた。彼らの卓見によって、僕の思考様式が毎日のように更新されている。おそらく僕にはまだtwitterが必要である。

一方でtwitterの文字制限は、僕を往々にして苦しめる。あらゆることを語るには、140字が短すぎる。そこでもう少し長く語れる手段として、ブログを選んだ。僕はfacebookもやっているけれども、どうやら日本では長文を頻繁に投稿することが歓迎されないようなので、目につきにくいようブログの形を取った。ここでは毎週日曜に、僕がその一週間、なにかにつけて思ったことを述べたいと考えている。時事に疎いから必ずしも読者のためになる文章は書けないかもしれないが、なるべく読みやすい文章を綴るつもりでいる。カポーティの小説くらいの読みやすさを目指していきたい。

またいつものように気まぐれで終わってしまうかもしれないが、ここで記したことが読者の印象に少しでも残っていただければ幸いである。